物流ウィークリーヘッドライン
昭和52年、私は倒産の腹を固め、整理に入った。子どもの数だけあった家、土地、家財道具をいっさい処分し、2億円余りの金をつくり、債権者へ支払った。
どんなに債務が多くても、2、3000万円ぐらいは残るだろうと思いきや、見事に1円も残らなかった。なかには債権を放棄してくれた取引先もあったのだから、私の会社は瞬く間に債務超過に陥っていたのである。
25歳で独立し、足かけ22年間経営した玩具会社だったが、私の放漫経営からあっけなく潰れた。時に48歳。無一文になった私は家内と長女(短大)、長男(高校)、次女(中学)の一家5人を引き連れ、6畳2間のアパートへ転がり込んだ。
それまで11間もある家に住んでいただけに、その狭いこと狭いこと。ちゃぶ台や冷蔵庫など、生活に必要な最低限以外の家財道具はすべて処分した。10台ものトラックをつらね、ピアノや家財を次々に運び去ってゆく。そのときの悔しそうな家内の顔は今もって忘れられない。
侘びしいアパート暮らしに転落しても、私はまだタカをくくり、甘い夢を追っていた。羽振りのよかった頃、ずいぶんと知人、友人、業者仲間の面倒を見てきたし、窮地を救ったことも1度や2度ではない。そうした間から必ずや、「『専務の椅子ぐらい用意しておくから、うちへきなよ』ぐらいの声はかかるはずだ」と信じて疑わなかった。が、無念なるかな、そういった声をかけてくれる者は1人としていなかった。
一方、連日連夜の取り巻きだった飲み仲間や遊び仲間も、私のふところが淋しくなったと察するや、潮を引くように去って行った。こうして私は知人、友人はおろか悪友にすら見放されてしまった。金の切れ目が縁の切れ目とはいうものの、それが倒産の現実にほかならない。