物流ウィークリーヘッドライン
経営環境は常に変わる。突然変わることもある。昭和60年は、まさにそういう年だった。この年のプラザ合意は、日本経済にとって実に大きなターニング・ポイントとなった。
以後、日本は何度となく急激な円高に見舞われ、そのたびに多くの輸出関連企業、それも中小・零細企業が苦境、破綻を余儀なくされていく。
Fさんもその1人。昭和の終わりから平成の初めにかけて襲った円高に直撃され、業績が急降下していく。いうまでもなく、円高は海外市場での価格競争力を低下せしめ、輸出の不振を招く。Fさんの文具・玩具も例外ではなかった。
それまでコンスタントに年商4億円をキープしていたのに、昭和63年には3億円へ、翌平成元年には1億2000万円へと、目も当てられぬほど急減した。
通常なら、これだけ落ち込めば倒産は必至であろう。売り上げが3分の1に落ちてもやっていける会社など、あろうはずがない。Fさんがその突風に耐え得たのは、堅実経営の結果として、ある程度の内部留保があったからである。
しかし、耐え得る力があるからといって、耐えていいということにはならない。耐えるのは、「ここを乗りきれば必ず回復する」という明確な見通しがある場合に限る。
しかし、Fさんは何の見通しもなく、内部留保を崩しながら、漫然と耐えたにすぎなかった。といって、そこは誰も責められない。当時、この円高は果たしておさまるのか、いつおさまるのか、おさまったとして輸出が回復するのか・・・明確な見通しを持った経営者はほとんどいなかったのだから。
Fさんとて円高→輸出不振→売り上げ急減を前に、ただ腕をこまねいていたわけではない。海外向けを国内向けでカバーすべく、もがきにもがいた。が、それがかえって傷口を広げていく。